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ひがたウォッチング
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とくしま自然観察の会
〒770-0944
徳島県徳島市
南昭和町4-70-3-301
井口 利枝子
Tel/Fax :088-623-6783
mail address:rieko@mandala.ne.jp |
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利枝子のガタガタ日記
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干潟の探検に出かけよう!
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吉野川河口探検vol.1 |
■地名について
「このあたりは 昔は大岡浦といったが その後住吉東町中洲となり、さらに
住吉北町4丁目、道路の拡張等があって住吉6丁目と変わってきた。」
――――大正15年の地図地図でも大岡浦となっていますね。
「吉野川が別宮川と呼ばれた頃、川幅は今よりずっと狭く堤防は今の川の中側に
あった。おじいさんの代までは私の家も その堤防の近くにあり、今の川の中州
あたりになる。」
――――岸へは舟で行き来したのですか?
「いや、畑があるで。」
――――ああ そうか。中洲と聞いて なんだか川の中の島に住んでおられたの
かと思いましたが、旧堤防からこっちは、陸つづきだったのですね。
■吉野川の堤防工事と村の移転について
「旧い堤防は石垣で波止(ハト)と呼ばれる波よけがついていた。いまよりずっ
と高さがあって、
土手の上は細かった。この旧堤は、今でも船で川面から見ることができる。
ただし、潮の引いて、天気のいい日。」
――――わぁ―、見たいですね。
「川幅を広げるために南側に堤防を作ることにより、うちは外側に沈んでしまう
ため、いまの場所に他の村の人と共に移って来た。
うちがこのあたりで、一番東のはずれで河口を見渡せば、沖洲海岸の松原が見え
た。
堤防の工事は馬で土を運んだ。トロッコも使った。私がはたち前くらいの頃だか
ら
終戦後すぐくらいには、道路の敷設や学校の建設などで沼や湿地がどんどん埋め
られ
た。囚人を動員して手作業でやっていた。城東小学校は湿地、徳商(徳島商業高
校)は川を埋めたててこしらえた。」
■生業について
「うちは、半農半漁だった。今は米は作っていないが、ここが水田の東はずれに
なる。ここより東は 塩水で米ができない。ここも水は、吉野本町から引いて来
ていた。それでも秋落ちと言って 塩害で稲がたおれることがある。
夏場は、水田で米を作り、冬場のみ川に出て漁をした。“さしあみ”と呼ばれ
る漁法で 夕方網をかけて、朝集めに行く。潮が止まっている時は 網でとり、
潮が動いている時は“かけ”と呼ばれる釣りをした。」これは舟に乗って呂をこ
ぎながら特殊なしかけの竿
で魚をひっかけて取る。魚が寄ってくる場所はだいたい決まっていた。ボラ、イ
ダ、ナカネなどの魚をとった。
春先には、コノシロがかかる。シジミもたくさんとれた。だいたい10軒くらい
が漁をしていた。海には行かない。川の漁だけ。
海の漁は沖洲の人5〜6軒が地引き網でやっていた。網の目が周囲から内側へい
くほど小さくなっていく仕組みになっていて、それを2隻の船が沖から引いてく
る。すると魚はだんだん真ん中に追い込まれて細かい目から逃げられなくなり、
浜にあげられる。これが巻き網漁に変わって海岸で漁ができなくなってから の
りをつくるようになった。」
■子どもの頃の遊びについて
「川ではよく遊んだ。夏は毎日泳いでいた。シオマネキがたくさんいた。ハサミ
の大きいのをつかまえてけんかさせた。シオマネキを釣るには、クグと呼んでい
た節の長い草が強くていい。トビハゼは食べたりもした。」
――――ぼくたちもカニ釣りしよるよ。(男の子たち)
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